藤本勇一『ヒューマニティーズ 外国語学』

 学校での言語学習の目的は、言語行為の領域のごく一部を柵で囲い、就職に役立つような、あるいはパーティで社会的信頼を得られるような、文化的エリート人間を養成することにある。確かに、こういったものを習得するのは素晴らしいことだが、言語に内在する「力」は野性の側にある。(ゲーリー・スナイダー『野性の実践』)


 外国語を学ぶのはいったい何のためだろうか。「ことば」が話せて、コミュニケーションが取れればそれでいいだろうか。最近は英語学習ばかりがもてはやされている。確かに短期的な実用性という観点からみれば、英語を学ぶということは利にかなっているのかもしれない。しかし、言語の持つ「力」や「可能性」はそんなに単純なものではないはずだ。うちの大学では最近は、英語教育にやたら力をいれているらしいが、それは外国語学を教える大学としては恥ずべきことではないか。


 言語は先天的に与えられたものではない。そしていわゆる「母語」も自分で選択したものではない。最初の言語として「日本語」を学ぼうと思って学んだ人はいないはずだ。つまり言語は他者性をもっているといえる。だからといって、母語が自分にとって疎遠なものであるということは決してない。

 むしろ、自分が選択したのではない他者の言語が自分に固有の言語であり、自己の固有性を形成する。すなわち、自己の固有性とは、自己を貫く他者性の効果なのだ。

 
 本書の後半では、「翻訳」という行為について触れられている。翻訳とはある言語を別の言語に置き換えることである。しかし、二つの言語は異なる言語システムをもっているため、翻訳の際には、自らの言語システムに無理やり取り込むための「暴力」が伴うことになる。


 しかし、翻訳が翻訳である以上、すなわち他者の言語の尊重を前提(使命)とする以上、「同化」を完遂させて、それで「よし」と居直ったり、「致し方なし」と諦めたり、「ここまで」と線を引いて済ますことは許されない。実際には実現不可能と知りながらも、かぎりなく他者の言語を尊重し、他者の言語への、あるいは他者の言語の他者性への「到達」を終わりなく「志向」しなければならない。



 本書の最後では、外国語学の役割についてこう書かれている。

 この到来において、外国語を学ぶことは、他者の言語と接する具体的な場を提供し、また他者性への感受性、はたまた他者との関係がはらむ様々な問題(権力関係、差異関係、抗争関係、その他)への感受性を育む訓練=試練として機能しうるだろう。


 この本はページ数は多くないが、興味深くて読み応えがあった。

 
 ついでにこれも興味深かった。内田樹「言語を学ぶことについて」