角幡唯介『探検家、36歳の憂鬱』

 今は辺境を見ようと思えば、大金を払ってツアーに参加すれば簡単に行くことができる。国家的威信をかけて探検をしていた時代と違って、冒険に成功したところで社会的地位や名声が得られるわけではない。そんな時代に探検家として生きるのはいったいなぜなのだろうか。


 角幡唯介さんの名前は聞いたことがあったけど、本を読むのは初めてだった。この本ではどうやって生きるのかとか、どうやって冒険するのか、といった探検家の悩みが赤裸々につづられている。

 この本で興味深いのは、身体性について触れられていることだ。3.11の地震があったとき、角幡さんはカナダにいて、テレビを通して知った。そして冒険を終えて帰ってきてから、被災地に行くときの気持ちをこう書いている。

 
 日本人なら誰もがその身体に刻み込まれた震災の記憶。私にはそれがなかった。旅はその欠落感を埋めるために試みた極めて虚しい抵抗であった。


 俺も震災のときにはオーストラリアにいたので、この感覚はなんとなく分かる。自分の身体で経験していないことは、実感しづらいのだ。だからあのときは大変だったといわれても、日本にいて経験した人ほどには分からない。


 産業革命以降、人間はどんどん自然から隔離されていって、身体感覚を失っている。(この前も少し触れた)でもこれからは身体感覚を取り戻していくような時代がやってくるんじゃないだろうか。そのきっかけとして震災がもつ影響力は大きいだろう。誤解を恐れずにいえば、あれは強烈な「生の体験」でもあったはずだ。


 探検家は、身体を使って世界を経験する最前線にいる存在だ。

 探検や冒険をしていると、圧倒的な生の感覚を享受するが、それは頭ではなく身体全体で何かを知覚しているからだろうと、私は自分の感覚から考えるようになった。


 探検家は未知の土地を切り開くだけでなく、これからの未知の時代を切り開く先駆者になりうるのかもしれない。